限界

ちょーっと、むりかなー。

もうそろそろ、むりかなー。

 

ってことが増えてきた最近。

何においてかと言うと、研究において。

 

やっぱ私能力ないんじゃないかーいって。

無能じゃないかーい。

何が根本の問やねーんって。

もう無理ならやめとけーい。

能力の限界ーって。

 

あんまり自分が無能無能言っていると本当に無能になってしまうので、できれば自分は有能で、機転が利いて、着眼点が良くて、俯瞰能力に長けていて、人とちゃんとコミュニケーションが取れますって、思いたいやーい。

 

ばっきゃろー!

 

って言ってたらどんどんテンションがおかしくなる。

疲れてきてる?いやそんなこともない。

私、大学入んなきゃよかった。

 

そしたら何も気づかず、何も考えず、のそのそと大学生活を終えて、きついだるい云々言いながら仕事して、そのうち結婚とかしたくて焦って、ろくなキャリアも手に入れられず、だらだらと実家暮らしでさ。

 

って思ったけどそんなん嫌やな。なんかめっちゃムカつくし。

なんでムカつくか、考えてみる?

 

まず今日ムカついていること。

なんで日本は大学で学問をすることを大事なことだと思われないんだろう。

モラトリアムなダラダラ楽しい大学生活なんて必要なかった。

もっと学びや自分の中の疑問や問いが価値あるものだって早く知りたかった。

 

学問は社会の基礎だ。

現象を読み解いて行く学問もあるから即効性なかったりして、そんなもん役に立たないなんて言われるのかもしれないけれど、それは違う。

 

だってなぜ紀元前から人が学問を、哲学を、幾何学をし、それが今も無くなっていないか、そんなの考えたらわかるじゃないか。必要だからだよ。

ぱっとみ役に立たないかもしれない。

ちまちま地味なこと考えて、それって役にたちますかぁ?なんて言われたら、私はその人のこと、毎朝ふくらはぎ攣るように呪ってやる。

 

能天気に生きる人も必要。え〜?難しいこと置いといてひとまずかんぱーい!みたいなね。ビールの消費量は君たちにかかっている(かもしれないかもしれない)

ビジネスだ!社会を変える!って人も必要。なんかよく分からないけど社会に即効性がありそうなビジネスでも立ち上げてくれ。

女の幸せ命!可愛い花嫁さんになりまーす❤️も必要。可愛いウエディングドレス着て可愛い式をあげるためにガンガンエステに行き新婚旅行に行き経済を回してくれ。

○○ヲタさいこーう!貢ぐぜ!って人も必要。ひとまず経済回してくれ。

 

でも私みたいに

 

なんか、社会のどっかにムカつく。社会を変える!とかは気だるくて仕方ないけど、なんでこんなムカつくことが世の中に起こってんのかって考えてるやつの存在も消さないでやってください。

 

もう混乱してわけわからん

 

 

 

 

地点

一昨日、記録を残していたのにどうやら消えてしまったらしい。

水曜日の出来事だった。

 

その日のトピックは2つ。

 

・クライシス(危機)は本当に悪いものか。

・研究者としての時代性

 

まずクライシス、危機における哲学。主に仏教哲学。

和辻哲郎、西谷…だれさんだっけ。

人は危機に瀕することで自我を見つめ直し、虚無に至り、成長を得るそうな。

それを聞いて「まさに今!虚無!!え、じゃあこの先にあるのは成長?」って思いながらも、そうじゃないんだろうなっていうのも感じた。

 

防災の授業だったからというのもあるかもしれないけど、私はいままで危機に出会ったことはないと思う。

 

「この先どうする。一年後、何してると思う?何していたい?」

 

日々こればかり。

やんなるよね。正解どころか納得解すらないんだよ。

納得していると言い聞かせることはできるけれど、本当に納得できるのは振り返り、その頃の自分を客観視できるようになる地点においてだと思う。

逆に納得いってたものが気に入らなくなるのもその地点。

 

少なくとも私はそういうタイプ。

 

その次。研究者としての時代性。

たとえば私の持つ時代性は「ゆとり教育」「バブル崩壊後不景気」「科学神話崩壊」とかかな。

特にゆとり教育は私の今の関心、「教育される対象としての子ども」みたいなものに関連してるとも思う。

ゆとり教育の中に投げ込まれたのに、挙句「これだからゆとり世代は」「ゆとりの失敗作」って言われて。自分たちじゃどうしようもなかったのにっていう悔しさ。

 

自分たちが育った環境を疑いながら生きる。

学校批判の中にある学校を生きる場としていたし、スクールカーストや学級崩壊が明確に言語化されて、ドラマの題材になったり書籍がたくさん書かれたり。

 

いいよね、使いやすい言葉だもんね。

 

「これだと信じ込める人生の価値観やモデル像」がない。

それこそ、今ある職業の何割だったかは数年後、十数年後にはなくなっているとも言われるし、インターネットが発達したおかげで、身につけた技術によってはどこにいても生きていける。

 

どれも信じられなくて、自分のことも信じられなくて。

 

そりゃ、生きづらいよね!すぐ炎上して晒されるし!

いかんいかん、愚痴になってしまうわ。

 

そういった、ここまでの人生の道のりを思い返してもいいかもしれない。

忘れたくないもの

まさしく今、夕方。午後7時、少し前。

 

研究室から、別の棟にある浄水器まで用があって2階にある渡り廊下を歩いた。

すぐそばにある大きな木が影を作りながら、オレンジの光が廊下に差し込んでいた。

 

この時間にこの場所を通らないと見られない。

急いでいたりしてもたぶんここまでのんびりとは捉えられない。

今日の私は急いでなかったし、少し頭は痛いけど、2時間ほど掛けて好きな本を読み返した後だったこともあり、気持ちには余裕があった。

 

以前、バイトの休憩中に外に出た時に、いい天気だなと空を見上げたときに、2本の飛行機雲が交差していた。

同じくらいの存在感の飛行機雲が交差して、別の場所を指しているのが面白くて、室内にずっといたから特に開放感を感じて。

休憩室に戻って報告したら「飛行機雲みるとか可愛いね」と同世代の人に言われた。

 

別に可愛くないし、私にとっては空を見上げて月や雲、太陽のことを考えるのは日常だっだからびっくりしたけど(いや単純にバカにされたのかとも思ったけれど)

でもそういうことを忘れないでいたいなと思いました。

 

気持ちに余裕がないときは地面ばかり見てしまうけれど、なんだかんだ帰り道に「もう少しで満月かな」とか「今日はまだ雲が見える時間帯に帰っているんだな」とか、ちょっと思考を切り替えるポイントになったりもする。

 

だから空を見ましょう。

 

忘れたくないことがまた一つ増えました。

 

今日は

いつもここに来るのは暗い気持ちやモヤモヤした気持ちを吐き出すためだけれど、今日はそうでもない。

 

「あなたがいない日はここが殺風景に感じるよ。あなたのように気負わずに話せる人がいないから」

 

と言われた。

数ヶ月前に出会ったバイト先の女性。

最初は変わった人だなと思っていたけど、なんとなく気が合いそうな気がして頑張って話しかけた。

よくある話だろうけど、私も話しかけられるといっぱい話すし、人自体は好きだけど、自分からグイグイ行くのって苦手っていうタイプ。

うざくないかな?私に話しかけられていやじゃないかな?

って頭の中で考えながら、それでも話しかけ続けたのは、その人が笑ってるところが見たいなぁって思ったから。

 

だから今日の一言は嬉しかったなぁ。

 

学生ということもあり、平日の出勤が少ない。

ちょっと前はGWで、バイト先も商戦かけてたから丸一日出勤してたり、連勤してたりしてて。

 

なんでそんなこと言おうと思ったのか忘れたけど、

「平日さみしいでしょ?私いないから」

っておちゃらけて言ってみたら「うん」って割と本音トーンで言われて、

「なんかね、殺風景な感じがする。ただ淡々と時間が過ぎるの」って。

 

いやいやんなこと…と思って「お客様が少ないからじゃないんですか?」って聞いたら、冒頭の言葉。

恋する乙女かい!って振り返ってしまいそうなこのやりとりだけど、

仲良くなりたいっていう気合い(敢えて気合いと言っておく)が伝わったのかなって思うと、すごく嬉しい。

 

「そういうちょっとしたこと、みんなが面倒だなって思って避けるところ、率先してやってくれるよね」

「頼みごとしたいなって思った時、あなたがいたらあなたに頼みたいなって思う。気持ち良く引き受けてくれるし、引き受けられない時でもかならず力になってくれる」

「痒いところに手が届く感覚というか、いてくれるとそれだけで安心する」

 

これまでバイト先で掛けてもらった言葉って、今の私の自身に大きく繋がってる気がする。

前中学時代の同級生とご飯に行った時に「中学の頃と変わったところ、ある?」という話になった時に一番に思いついたのは「自分に自信がついた」って答えた。

 

本当にそれが一番に出てきた。

この自信っていうのは、あれができるこれができる、というよりは、

自分の感覚や感じること、考え方を信頼できるようになったといった感じ。

 

「君の持つ違和感はとても大事だし、違和感を持てるということは君のいいところだ」

 

と1年前、研究室の先生に言われたことも思い出した。

この議論のここがどうしても気になる。でもどうして気になるか分からないし、気になったことは納得いくまで気になってしまう私が面倒で…と嘆いた時だった。

 

だから感覚や感情、その時思ったことを大事にしてきた。

それ以外にも自分の好奇心や思いついたことをどこか片隅に置いておくように心がけた。多分自分の好奇心は全部どこかで輪のように繋がっているし、自分から出た好奇心や知りたいという意欲は、そのまま今の自分がこの道を歩く決意をした理由になると思う。

 

ところで今日、5月13日。またはその前後。博多で大きな地震が起こるという噂があるらしい。出勤時の朝礼でも災害時の対応について共有があった。

 

「いつ死んでも後悔はない。私は日々自分を生きている」

とはいうものの、もちろん自分や人の命を軽く考えて「いつ死んでも」という文脈においてでは無い。

何かがあったとき、自分の身はもちろん、誰かのことを守る、とまではいかなくとも。

 

防災の知識をつけたい、きちんと考えようと思いました。

以上、今日思ったこと。

 

 

モラトリアム

鬱々と過ごした4月を終え、5月になった。

GWに入り、久しぶりに家族揃って出かけた。

同じ県内の観光地にふらっと行って、名物を食べ、妹の希望で港でをぶらりしながら撮影会だった。

初めは「久々に行くなぁ」「あぁ、今日は1日休みなんだなぁ」とウキウキしつつ、

気づいたら頭の中は「私、これから何しよう」ばかり。

 

結局忙しくなくなると悩みで頭が占領される。大変よろしくない。

 

いつだって不安からは目を逸らしていたいし、楽しいことだけ見ていたい。

けれど朝起きて洗面台前に立つと、鏡の中の自分が自分を責め立て、追い込もうとする。

 

「それであなたは何者になるの」

「あなたには何ができるの」

「この2年間はただ進むのを避けただけになる。あなたは逃げただけ」

「これからどうやって生きて行くの」

 

怖いし、気持ちが悪い。

誰にもそんなこと言われないのに自分が自分を追い込もうとしている。

モラトリアム?それならそれでいいじゃない。

逃げた?逃げたっていいじゃん。

 

私はいつだってちっぽけな人間だし、きっとこれからもこのまんま。

 

うじうじ悩みながらジリジリと自分のことを追い詰めながら生きて行くんだろうね。

これを読み返す自分が少しでも自分のことを好きになって、認めてあげていることを祈ります。

当たり前

大学院生になり最初の1週間がやっと終わった。と思ったらすぐに2週目に入った。


課題や予習が増えてきて、研究室のプロジェクトのタスクもあり、なんとなくやることが山積みな気がしてくる。


それだけで鬱々とした気分。

しかも内容が難しい。分からない。これまでの私の頭じゃ太刀打ちできない。


だけど逃げてばかりもいられない。それも分かる。分かるけど逃げたいし、なぜだか何もしたくない。普段ここまで塞ぎ込んだり、やりたくない病に陥ること、ないのに。


自分にイライラしてばかり。

できない、やれない、動けない。


でもそんな時、「気圧が下がると鬱々となる人がいるよね」という趣旨のツイートを見た。

正直ハッとした。


別に私が悪いんじゃなくて、天気が悪かったからなのか?

そういえば鬱々とし出したのは三日前、雨が降り出したくらいからだ。

昨日も雨。なかなかの雨だった。


研究室を出て生協の売店に向かうまでに土砂降りに降られた。古いキャンパスでは排水もままならないのか、地面は一面水溜りのようだった。


雨に降られながら歩いた駅までの道では桜が素足のふくらはぎに貼り付いていた。


息が詰まる感じがずっとしてた。

はぁ、なるほど。天気か。


じゃあきっと鬱々としていたのは私だけじゃないし、私の気性が大きな要因ではないのかも。

自律神経弱いって言われるし、常時鼻づまりだから、それも鬱々と気分になりやすい人の特徴らしい。


そう思うとここまでモヤモヤしてたのがスッと晴れて、ひとまずカフェラテでも飲もうかなと動けるようになった。


そして今自分が力不足、知識不足を感じていることについてもちょっとだけ前向きになった。


だってこれまでより難しいことしようとしてるんだし、できないから学んでるんだもん。

できなくて当然。歯がゆくてむず痒くて当然。知らないこと、できないことは恥ずかしくない。


そりゃ、ゼミの場ではちょっと恥ずかしく感じたりするかもしれないけれど、あとで思い返したらきっとそこまで恥ずかしいことでもない。あそこで学んだなって、思うだけ。


レベルアップしようとしてる、今までより難しいことを求められてる。

まだ始まったばかり。訓練。

まだまだスタート位置。走り出してもない。


できないことに悩むなら、できるように頑張ろう。

できないことが多いなら、少しずつ出来ることに変えていこう。

できないことがあるということは、これからできるようになれることもあるってことだ。


そして外に出てみると日が差してて、ちょっと健やかな気分になりました。

日焼けを気にする季節だなぁ。


ここ数日の葛藤

今の私は教育哲学者を志している。

でも時にとてもそれは苦しいことで、なぜなら私が今いる場所が実践に寄っている場所が実践に寄っているからだと思う。

大学の教育哲学研究の先生が仰っていたことで最近刺さったことがある。

 

「哲学には即効性がありません。解決策を提示することもできないのでよく『そんなことを考えて何になるんだ』と責められます。

どうぞ責めてください。哲学はそれでいいんです。

哲学はすぐに効果を出すものではありませんが、様々な取り組みや施策が行われる中で、教育の本質やそもそもの前提を問うものです」

 

(こんな感じだったはず。間違ってたら哲学の先生、ごめんね)

 

この言葉を聞いてしまうと当たり前のように感じるけれど、少なくともこの言葉を聞くまでの私はそこに引っかかっていた。し、今も引きずられている。

 

「こんなことを考えること、誰か必要としているんだろうか」

「こんなことを考えることで変わる状況や救われる何かはあるんだろうか」

「現場に出て何か役割を負っていく方が誰かの役に立つんじゃないか」

 

私が今所属している研究室の長である先生ははどちらかというと現場で常に当事者に寄り添って「しまって」き続けた人である。

なぜ「しまって」か、というと、「思わずそこにあったコップに手を伸ばしてしまったかのようにその事に関わってしまうこと」がその感覚に近いらしい。確か。当事者に寄り添うことを何より大切にされてきた先生だ。

 

故に私から見ると先生までも当事者に見える。一緒に悩んで困って向き合ってきたように見える。先生はそういうやり方で様々な物事、人に関わってきた。

 

「思わず」

「やらなければと無意識に思った」

「知ってしまったから無視できなかった」

 

これが積もり積もって、先生の経験として大きな価値を生み出している。

素晴らしいと思う。

私も「あれ、これ、やんなきゃ。今誰かがやんなきゃ」と勝手に責任感というか、先生のおっしゃることに近い感覚を抱いたと思ったから、先生のもとで学ぼうと考えた。

 

だけど最近そこから派生して、

 

「この実践に関わる人の心意気や問題意識、ビジョンは分かる。でももっと私は根本が知りたい」

「この問題はどういう現象なんだろう」

「この現象の骨組みが知りたい」

 

と考えるようになってきた。

薄っぺらい言葉しか今は持ってないけど、言うなれば「本質が知りたい」これに尽きると思う。

 

今まで憧れてきた(私は先生のフットワーク軽く動き回る姿に、なりたい大人像の一つを重ねて憧れていたんだと思う)動き方を疑っているわけでも、本質を知らないのに云々、と言いたいわけでもない。

むしろ自分にはそうなれる素質というか、性質がなさそう、そうじゃないやり方が向いているかもしれないと考えるようになってからはさらに尊敬しているし、社会を変える力はこういう人のもとに宿るんだと思う。

 

そんなことをつらつらと考えていた数日。

そして今日、実際に現場というか、NPOで活動してきた同期(今は1学年下になった)の話を活動報告という形で聞くいい機会を作ってもらった。

 

聞きながら、感心を越えて感動した。

その感受性の高さと、そこで得たものを適切に人に伝えられる技術とセンスに感動した。

あんまり好きな言い方じゃないけどまさしく「刺激を受けた」ってことだろう。

そして愕然とした。

私この一年で何を学んだんだろう?いろいろなことを考えて学んできたつもりだったけど、実は私の中には何一つとして残っていないんじゃないか。

 

同い年だから、ほぼ同じ年月を生きてきてるんだと思う。向こうが半年以上先に生まれてはいるものの。

ほぼ同じ年月生きてきたのにこんなに差が出るものかぁ、と。

そりゃあ、見てきたもの、得てきたもの、生きてきた軌跡が違うから、当たり前なんだけど。

劣等感、だなぁ。と。

 

でも私が尊敬するある人が、劣等感とは少しズレがあるかもしれないけど、「ずるい」という感情に対して、「何に対しても、私が及ばない」と言っていたななんてことを思い出した。

 

じゃあ私は何をすればいいんだろう。

今の私には何もできない。何も知らない。

これから先何をすればいいんだろう。

 

なんのために生きているんだろう。

私はこの人生の中で何を残して死んでいくんだろう。

私の人生は何かの役に立つんだろうか。

なんで生まれてきたんだろう。

どうして生まれてこないという選択肢は与えられないんだろう。

生まれてきた時点である種の「不条理」を背負っているのではないか。

だって私は生まれてきてしまった。

そう簡単に死なせてももらえないし、何かと「前を向いて生きろ」といわれる世の中だし、いざ死んでもいいよって言われてもたぶん死ねないし。

なんだかんだ生きていたいと考えているし、死ぬ間際には「死にたくない」って思う気がする。死ぬ時に後悔はしたくないし明日世界が終わっても後悔はないけれど。

 

「生まれてしまった」私が存在しないことには、「生まれてこない」という選択肢やそれを選ぶ主体である(かもしれない)私も存在しない。

 

この世に投げ込まれてしまった、不条理?

でも生きてるって、生まれてきたことってそんなに悪いことばかりだったっけ?

 

ここまで考えたところで、帰り道に飲んでいたラテをTシャツの胸元にこぼしました。

生きてる生きてない云々の話から「このめっちゃ着回し効くTシャツがおじゃんになってしまうのは困る。シミになって残りませんように」に思考の中心が移動した。

 

一気にいろんなものがどうでもよくなる瞬間。

あれ、私今までなんて重苦しいことを考えていたんだろう。

 

それまで脳内で思考を殴り書きしてた哲学者もどきの「私A」が、現実を生きることに焦点を置いている(適切な表現が見つからない)「私B」によって客観視され、思考の場から放り出される感覚。

 

哲学っぽい問をしたくなるお年頃?な私だけど、やっぱり哲学は人から幸福を奪いかねないなと思った。

生きてる意味なんて深く考えず、そこにある「生まれてきてしまう以外に選択肢を与えられない不条理」の存在になんて気づかず、生きてるほうがよっぽど精神的には健全じゃないかな。

 

でも考えちゃうんだな~。

私と哲学を出会わせたのはどこのどいつだ。

 

「夢中になれるものを一つ与えてくれてありがとう」という気持ちを半分と、

「なんてことしてくれたんだもう逃れられないじゃないか」という気持ちを半分ずつ混ぜてその人の家の庭に投げ込みに行きたい。

 

「あれ、これなんだ?あぁ私はどっかの誰かと哲学を出会わせてしまったんだなぁ。よし、じゃあ哲学との付き合い方を教えよう、入ってきなさい」って言ってほしい。

このままだと深い何かに飲み込まれてしまいそうです。

 

賢い誰か、助けてください。