ここ数日の葛藤

今の私は教育哲学者を志している。

でも時にとてもそれは苦しいことで、なぜなら私が今いる場所が実践に寄っている場所が実践に寄っているからだと思う。

大学の教育哲学研究の先生が仰っていたことで最近刺さったことがある。

 

「哲学には即効性がありません。解決策を提示することもできないのでよく『そんなことを考えて何になるんだ』と責められます。

どうぞ責めてください。哲学はそれでいいんです。

哲学はすぐに効果を出すものではありませんが、様々な取り組みや施策が行われる中で、教育の本質やそもそもの前提を問うものです」

 

(こんな感じだったはず。間違ってたら哲学の先生、ごめんね)

 

この言葉を聞いてしまうと当たり前のように感じるけれど、少なくともこの言葉を聞くまでの私はそこに引っかかっていた。し、今も引きずられている。

 

「こんなことを考えること、誰か必要としているんだろうか」

「こんなことを考えることで変わる状況や救われる何かはあるんだろうか」

「現場に出て何か役割を負っていく方が誰かの役に立つんじゃないか」

 

私が今所属している研究室の長である先生ははどちらかというと現場で常に当事者に寄り添って「しまって」き続けた人である。

なぜ「しまって」か、というと、「思わずそこにあったコップに手を伸ばしてしまったかのようにその事に関わってしまうこと」がその感覚に近いらしい。確か。当事者に寄り添うことを何より大切にされてきた先生だ。

 

故に私から見ると先生までも当事者に見える。一緒に悩んで困って向き合ってきたように見える。先生はそういうやり方で様々な物事、人に関わってきた。

 

「思わず」

「やらなければと無意識に思った」

「知ってしまったから無視できなかった」

 

これが積もり積もって、先生の経験として大きな価値を生み出している。

素晴らしいと思う。

私も「あれ、これ、やんなきゃ。今誰かがやんなきゃ」と勝手に責任感というか、先生のおっしゃることに近い感覚を抱いたと思ったから、先生のもとで学ぼうと考えた。

 

だけど最近そこから派生して、

 

「この実践に関わる人の心意気や問題意識、ビジョンは分かる。でももっと私は根本が知りたい」

「この問題はどういう現象なんだろう」

「この現象の骨組みが知りたい」

 

と考えるようになってきた。

薄っぺらい言葉しか今は持ってないけど、言うなれば「本質が知りたい」これに尽きると思う。

 

今まで憧れてきた(私は先生のフットワーク軽く動き回る姿に、なりたい大人像の一つを重ねて憧れていたんだと思う)動き方を疑っているわけでも、本質を知らないのに云々、と言いたいわけでもない。

むしろ自分にはそうなれる素質というか、性質がなさそう、そうじゃないやり方が向いているかもしれないと考えるようになってからはさらに尊敬しているし、社会を変える力はこういう人のもとに宿るんだと思う。

 

そんなことをつらつらと考えていた数日。

そして今日、実際に現場というか、NPOで活動してきた同期(今は1学年下になった)の話を活動報告という形で聞くいい機会を作ってもらった。

 

聞きながら、感心を越えて感動した。

その感受性の高さと、そこで得たものを適切に人に伝えられる技術とセンスに感動した。

あんまり好きな言い方じゃないけどまさしく「刺激を受けた」ってことだろう。

そして愕然とした。

私この一年で何を学んだんだろう?いろいろなことを考えて学んできたつもりだったけど、実は私の中には何一つとして残っていないんじゃないか。

 

同い年だから、ほぼ同じ年月を生きてきてるんだと思う。向こうが半年以上先に生まれてはいるものの。

ほぼ同じ年月生きてきたのにこんなに差が出るものかぁ、と。

そりゃあ、見てきたもの、得てきたもの、生きてきた軌跡が違うから、当たり前なんだけど。

劣等感、だなぁ。と。

 

でも私が尊敬するある人が、劣等感とは少しズレがあるかもしれないけど、「ずるい」という感情に対して、「何に対しても、私が及ばない」と言っていたななんてことを思い出した。

 

じゃあ私は何をすればいいんだろう。

今の私には何もできない。何も知らない。

これから先何をすればいいんだろう。

 

なんのために生きているんだろう。

私はこの人生の中で何を残して死んでいくんだろう。

私の人生は何かの役に立つんだろうか。

なんで生まれてきたんだろう。

どうして生まれてこないという選択肢は与えられないんだろう。

生まれてきた時点である種の「不条理」を背負っているのではないか。

だって私は生まれてきてしまった。

そう簡単に死なせてももらえないし、何かと「前を向いて生きろ」といわれる世の中だし、いざ死んでもいいよって言われてもたぶん死ねないし。

なんだかんだ生きていたいと考えているし、死ぬ間際には「死にたくない」って思う気がする。死ぬ時に後悔はしたくないし明日世界が終わっても後悔はないけれど。

 

「生まれてしまった」私が存在しないことには、「生まれてこない」という選択肢やそれを選ぶ主体である(かもしれない)私も存在しない。

 

この世に投げ込まれてしまった、不条理?

でも生きてるって、生まれてきたことってそんなに悪いことばかりだったっけ?

 

ここまで考えたところで、帰り道に飲んでいたラテをTシャツの胸元にこぼしました。

生きてる生きてない云々の話から「このめっちゃ着回し効くTシャツがおじゃんになってしまうのは困る。シミになって残りませんように」に思考の中心が移動した。

 

一気にいろんなものがどうでもよくなる瞬間。

あれ、私今までなんて重苦しいことを考えていたんだろう。

 

それまで脳内で思考を殴り書きしてた哲学者もどきの「私A」が、現実を生きることに焦点を置いている(適切な表現が見つからない)「私B」によって客観視され、思考の場から放り出される感覚。

 

哲学っぽい問をしたくなるお年頃?な私だけど、やっぱり哲学は人から幸福を奪いかねないなと思った。

生きてる意味なんて深く考えず、そこにある「生まれてきてしまう以外に選択肢を与えられない不条理」の存在になんて気づかず、生きてるほうがよっぽど精神的には健全じゃないかな。

 

でも考えちゃうんだな~。

私と哲学を出会わせたのはどこのどいつだ。

 

「夢中になれるものを一つ与えてくれてありがとう」という気持ちを半分と、

「なんてことしてくれたんだもう逃れられないじゃないか」という気持ちを半分ずつ混ぜてその人の家の庭に投げ込みに行きたい。

 

「あれ、これなんだ?あぁ私はどっかの誰かと哲学を出会わせてしまったんだなぁ。よし、じゃあ哲学との付き合い方を教えよう、入ってきなさい」って言ってほしい。

このままだと深い何かに飲み込まれてしまいそうです。

 

賢い誰か、助けてください。