地点

一昨日、記録を残していたのにどうやら消えてしまったらしい。

水曜日の出来事だった。

 

その日のトピックは2つ。

 

・クライシス(危機)は本当に悪いものか。

・研究者としての時代性

 

まずクライシス、危機における哲学。主に仏教哲学。

和辻哲郎、西谷…だれさんだっけ。

人は危機に瀕することで自我を見つめ直し、虚無に至り、成長を得るそうな。

それを聞いて「まさに今!虚無!!え、じゃあこの先にあるのは成長?」って思いながらも、そうじゃないんだろうなっていうのも感じた。

 

防災の授業だったからというのもあるかもしれないけど、私はいままで危機に出会ったことはないと思う。

 

「この先どうする。一年後、何してると思う?何していたい?」

 

日々こればかり。

やんなるよね。正解どころか納得解すらないんだよ。

納得していると言い聞かせることはできるけれど、本当に納得できるのは振り返り、その頃の自分を客観視できるようになる地点においてだと思う。

逆に納得いってたものが気に入らなくなるのもその地点。

 

少なくとも私はそういうタイプ。

 

その次。研究者としての時代性。

たとえば私の持つ時代性は「ゆとり教育」「バブル崩壊後不景気」「科学神話崩壊」とかかな。

特にゆとり教育は私の今の関心、「教育される対象としての子ども」みたいなものに関連してるとも思う。

ゆとり教育の中に投げ込まれたのに、挙句「これだからゆとり世代は」「ゆとりの失敗作」って言われて。自分たちじゃどうしようもなかったのにっていう悔しさ。

 

自分たちが育った環境を疑いながら生きる。

学校批判の中にある学校を生きる場としていたし、スクールカーストや学級崩壊が明確に言語化されて、ドラマの題材になったり書籍がたくさん書かれたり。

 

いいよね、使いやすい言葉だもんね。

 

「これだと信じ込める人生の価値観やモデル像」がない。

それこそ、今ある職業の何割だったかは数年後、十数年後にはなくなっているとも言われるし、インターネットが発達したおかげで、身につけた技術によってはどこにいても生きていける。

 

どれも信じられなくて、自分のことも信じられなくて。

 

そりゃ、生きづらいよね!すぐ炎上して晒されるし!

いかんいかん、愚痴になってしまうわ。

 

そういった、ここまでの人生の道のりを思い返してもいいかもしれない。